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2020年11月19日

寄稿「バンドと亡き友とそしてサンシンと」

    バンドと亡き友とそしてサンシンと

 70年代沖縄ではダンスパーティー(ダンパ)が盛んであった。活動資金を得るために大学のサークルはダンパのチケットを売るのに懸命であった。いろいろなサークルが「チケットを買ってくれ」と来るが、こちらはブルースのチークダンスは得意だがそれ以外は全くダメ。女の子の足を思いきり踏み付けて耳元で「アガー!」と悲鳴を聞くのが落ちであった。
 私は音楽系のサークルにいたが自分のサークルのチケットは売るが何せ踊れない。一計を案じて「踊る」のではなく「踊らそう」、つまり舞台でダンス音楽を演奏する側に回ろうと考えた。サークル同期のO君、M君、K君と泡盛を飲みながら「バンド結成」で一致。
若さ故の即断即決である。O君がリードギター、M君がフルート、僕がベース、後輩のハンサムボーイがドラム、ボーカルはM君の恋人でサークル憧れのマドンナに「あなたは英文科だから英語の歌は上手く唄えるはずだ。それにとてもチャーミングだ。」とそそのかして迎え入れるのに成功。バンド名は酒の座で生まれたからギリシャ神話の酒の神様にちなんで「ザ・バッカス」。
 みんな楽譜は読めるし少しは編曲もできる。ダンスに使えそうな曲を集めてルンバ、マンボ、ワルツ、ブルース、クイック、・・・が踊れるようにアレンジし演奏できるようになった。当時はレコードで踊るのが主流だから我々のようなシロートでも生バンドは喜ばれた。大学を卒業しても趣味的に活動は数年続いた。
 一番の思い出は名護の農協主催のダンパでのこと。こちらは「クイック」のつもりで「青い山脈」を演奏したが、あらまービックリ。何と皆さん中学生の頃に戻って楽しそうに肩越しに手を回して「若く明るい歌声に・・・」をくちずさみながらフォークダンスのステップ。「ん?」と同時に「ウフッ」と笑いが出て何かホノボノとした気持ちになり四拍子の曲をリズミカルに楽しく演奏したのを今でも懐かしく思い出す。
 しかし年月は過ぎ、M君・O君・K君の3名は天国へと旅立ってしまった。楽器を弾いていた4人の内しぶとく生き残っているのは僕一人になってしまった。寂しくて仕方がない。あの3人は「お前も早く来てベースを弾け」と言っているかも知れないが、こちらは
サンシンに取り組んで間もない。あの世に行くのは3人にサンシンを教えるまでに腕を磨いてからにしたいと思っている。そのためには早く上達した方がいいのか、稽古をサボってヨンナーヨンナー弾けるようになった方がいいのか四六時中考えて稽古が手につかない。
この調子だと天国の3人にサンシンを教えに行くのはずっと先になるのでは、と若かりし頃を思い出しながら感慨にふけっている。

              池城英一(いけしろひでかず)

寄稿「バンドと亡き友とそしてサンシンと」




 運営者注:筆者は沖縄宮古民謡協会副会長、師範。
      周囲に優しく、いつもユーモアを忘れず、頼れる人。


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Posted by 沖縄宮古民謡協会事務局 at 13:33│Comments(2)宮古民謡宮古沖縄三線沖縄宮古民謡協会
この記事へのコメント
青春時代のバンドメンバーとの
素晴らしい想い出ですね。

亡くなられたご友人達も
きっとご一緒に
ご活躍されている事でしょう。

心から応援致しております。
Posted by chibana at 2020年12月11日 07:37
chibana様いつもありがとうございます!
故郷も旧友も、永遠に心から消えない存在です。
心を込めて歌も踊りも楽しんで参りたいと思います。
Posted by 沖縄宮古民謡協会事務局沖縄宮古民謡協会事務局 at 2020年12月14日 13:07
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